ここはわたし達の住む町から、輩出された先覚者の生き様を知るコーナーです。
彼らは何を学び、何を考え、行動したのでしょう。その人となるを学びましょう。郷土の先覚者シリーズ2 金丸惣八の生涯
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夏休み.新吉君と富子さんは新田地区 柳瀬にあるおじいさんの家に遊びに行きました。その途中、黄金色に輝き、刈り入れを待つ美しい田んぼが広がっていました。「わあー、きらいだね。」「うん。とっても広いね。」
家につくとおじいさんに、途中の美しい田んぼの話をしました。おじいさんは、「こんなに広く美しい田んぼになるまでには、いろいろな困難なことがあったのじゃよ。」と江戸時代の終り頃から、明治時代の初めの頃の金丸惣八さんのお話を始めました
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おじいさんのお話しによると、そのころは、この辺りの地区は水がないため米が作りにくく、生活が大変苦しかったそうです。
特に、江戸時代の終り頃は、日照りの害によりお米の取れない年が多かったそうです。
そのため、飢え死にする者も出たそうです。
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ちょうどそのころ、金丸惣八は児湯郡新田村の柳瀬というところに金丸景住の長男として生まれました。文政9(1825)年5月5日のことでした。
惣八はすくすくと成長し、若くして佐土原藩水利係の役人に任用されました。
惣八は、ご家老様のお供をしてたびたび京、大坂、江戸へ旅をしました。
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学問好きだった惣八は、旅に出る度にいろいろな書物を買って帰り自分で勉強したそうです。
いろいろな国の様子を見て、水さえあれば自分のふるさと佐土原藩でも、もっと米がとれることがわかりました。
こうして惣八は「水があれば佐土原藩はもっと豊かにできる。水を何とかしなければ」と思うようになりました。
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惣八は、諸国は水を得るためにどんなことをしているのか、旅で見てきたことを振り返ってみました。その結果、田んぼの多いところは用水池、用水路等が自分の住む佐土原藩よりたくさん」あることがわかりました。
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郷里に帰った惣八は。「人々の生活を豊かにするには水を引き、田んぼを多く作ることが必要だ」と考え始めました。そしてそのことを佐土原藩のお殿様に願い出ました。お殿様も大変喜び、田んぼを造る工事の許可を与えました。
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惣八は大いに喜び、さっそく藩内各地に堰堤を築き用水池(ため池)をつくりました。また、用水路を造ったり、川の堤防を丈夫にしたりしました。何年もかかりましたが、新たにたくさんの田んぼが作れるようになり、藩内の多くの人々に大変感謝されました。
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ところで、惣八の住む柳瀬村は、畑ばかりで田んぼは少なく米があまりとれません。そのため食べるお米さえよそから買わなければならず、村人は大変困っていました。「自分の村が苦しいのは米ができないからだ。米をとれるようにするには水がいる。水さえあれば」このとき惣八は何か深く心に決めたことがありました。
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村人は、「そんなことができるはずがありません。第一どのようにして水を引くのですか。次にその工事にかかる費用はどうするのですか。」「貧しい村であることは 惣八さんもよくご存じでしょう。お金のかかることはできません。」といってほとんどの人から反対されました。何度も繰り返し繰り返し話しましたが聴いてもらえませんでした。
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それでも惣八はあきらめません。次の日もその次の日も村人を訪ねては、米がとれるようになったらどれほど生活が豊かになるか、を説明してまわりました。毎日毎日村人を訪ねては「畑を田に変えよう。」と説いて回りました。惣八の履き物は擦り切れ、着物はほこりまみれです。
しかし惣八はへこたれません。「百万べんでも説明するぞ。わかってくれるまで続けるぞ。それが柳瀬村の人々を豊かにすることだから。」と説明に回り続けました。
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そんな生活が続いたある日の村の寄り合いの時、村長さんが、「惣八様、田んぼの必要なことはわかっています。でも、どのようにしてその費用を工面するのか、どうしても決心がつかなかったのです。しかし、米がとれるようになれば借金していても返すことができます。村のみんなと相談してやってみることに決まりました。」といいました。惣八は「やっと分かってくれましたか。ありがたい。でもここからが大変だな」と心を引き締めました。
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それからの惣八の働きは大変めざましいものでした。柳瀬の土地の高さを測量したり、一ツ瀬川の水位を調べたり、用水路を引く場所を調べたりしてようやくどこに堰堤をつくるか決めました。その場所は、今の新富町と西都市の境にある瀬口の橋の上流にあたる栗唐瀬というところでした。
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次は、水路を引く用地を手に入れる交渉に入りましたが、ここでまた難しい問題がおこりました。
それは水路を引く用地の大部分が佐土原藩の土地ではなく、幕府の土地、いわゆる天領だったのです。交渉はきわめて難しいものでした。「そんなことをしたら洪水になる」とか「用水路の敷地を手放したくない」などといって反対する天領の人々を、惣八は「公共の利益とは何か」を熱心に説き、持ち前のねばり強さで次々と承諾させていったのです。そしてついに用水路の敷地を手にいれる約束はできました。
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しかし惣八は堰堤や用水路を築くための費用は計算してみておどろきました。予想はしていたのですが、あまりにお金がかかりすぎて、到底柳瀬地区だけでは出せないことがわかったのです。そこで詳しい資料をそえて佐土原のお殿様に「どうぞ助けてください」とお願いの手紙を出したのです。
お殿様は惣八の村を救おうとする気高い心をほめたたえ、お手元のお金を出してくださったのです。惣八は「ありがとうございます。これで柳瀬村を救えます。ありがとうぎざいます」と勇んで工事に取りかかりました。
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こうして工事は始まりました。柳瀬村のお百姓さんも、惣八も、藩の水利係の人も真っ黒になって一生懸命働きました。
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しかし、工事は簡単には進みませんでした。堰堤造りは、川の中に木材で杭を立て、そこに土を入れた袋をつんでいくという工法でした。工事の途中で大雨が降り、川の水かさが増すと、せっかく積んだ土の袋が棒杭ごと流れてしまうのです。このことがたびたび起こりました。
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一方、用水路造りも大変でした。元々川が流れた後にできた土地のため、少し掘ると大きな石がごろごろと出てきますし、また、低いところを掘ると、石と一緒に水がどんどんわき出してくるのです。なかなか掘り進むことはできません。
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惣八は寝る時間も惜しんで熱心に工事場を見て回りました。そしていろいろな知恵を出して工事を導きました。その結果、ついに長さ150間(約270メートル)、高さ10尺(約3メートル)のきわめて丈夫な石積みの堰堤と、長さ約一里(約4キロメートル)幅6尺余(1.8メートル位)ほどの水路が完成したのです。
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さあ、いよいよ初めて水を通します。みんな心配そうにじっと見つめています。
堰堤から水路に水が流れました。水は勢いよく流れています。人々が待ち構える柳瀬の村へ。
人々は「万歳、万歳これで米が作れるぞ」と涙を流して喜びました。こうして柳瀬の村へ水は届くようになったのです。時に明治4年3月18日でした。
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この後、柳瀬村の畑は順々に田んぼへの変わっていったのです。初め4町歩ほどしかなかった田んぼが、水が届くようになった後は50町歩位にまで増えたのです。それにともなって人々の暮らしはだんだん豊かに変わっていったのです。この時、水が来た地区は柳瀬の 他に黒生野、岡 富、現王島等がありました。
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このとき惣八はこの堰堤(人々は栗唐堰きと呼んだ)が後にもっと大きな面積を潤すことになるとは思ってもいなかったのです。この後に新田村伊倉の松本覚兵衛という人がこの堰から水をもらって伊倉地区、下新田地区にも水が行くように用水路を造りました。やがて、用水路は下富田地区にまで広がって広い範囲でお米が作れるようになりました。そして今や宮崎県下で最大の灌漑面積を持つまでになったのです。
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さしもの惣八も、今度の栗唐堰づくりには力を出し切ってがんばりましたので疲れて病気になりました。そこで、それまでについていたいろいろなお役目をやめることを願い出ました。
ついに堰堤づくりの神様みたいな惣八も堰堤づくりから引退していったのです。
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惣八はこの後、蚕を養って絹糸を作る養蚕という技術を地区の人々に教え、自分も養蚕にはげみました。明治23年、柳瀬から中須に隠居して移り住み養蚕室を建て、製糸機を据え付け宮崎県の養蚕業の先駆けとなりました。
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金丸惣八は明治31年7月4日、惜しまれながらこの世を去りました。74歳でした。
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人々は金丸惣八を、村を救ってくれた偉大な恩人としていつまでも感謝し、永遠にその業績をたてえるために記念碑を建立しました。また毎年祭典を行い、いままで栗唐堰と呼んでいた堰を「金丸堰」と呼ぶようになりました。
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「どうだい?こんなことがあって今の立派な美しい田んぼができたのじゃよ。新吉君、富子さんわかったかの。」おじいさんは目を細めながらいいました。
黄金色に波打つ田んぼの上を盆とんぼが飛び交っています。柳瀬地区ももうすぐお盆を迎えます。
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金丸惣八の業績及び経歴
文政8(1825)年 児湯郡新田村大字新田柳瀬に金丸景住の長男として生まれる。
弘化4()年 佐土原藩井出方里山方附き役となる。
安政2(1855)年 家老に従い江戸へ旅する。
安政3(1856)年 家老に従い諸国状況視察 同年8月帰国
安政4(1857)年 児湯郡三納村大木谷に新堤築立
安政5(1858)年 佐土原藩領内の島之内に新堤築立
安政6(1859)年 北那珂郡馬の越に新堤築立
安政6(1859)年 児湯郡鹿野田村新堤築立
安政6(1859)年 上那珂村新神谷新堤築立
安政6(1859)年 新田村山田が迫新堤築立
文久元(1861)年 上富田村後迫新堤築立
文久2(1862)年 上富田村民二郎谷新堤築立
文久2(1862)年 北那珂郡下田島二つ建塩浜築立
文久2(1862)年 富田村五反田、王子、塩浜築立
文久3(1863)年 薩英戦争に出陣
文久3(1863)年 新田村銀代ケ迫新堤築立
元治元(1864)年 上富田村鬼付女前新堤築立
慶応元(1865)年 上富田村日置川、新川井出築立 40才
慶応2(1866)年 山田村川原新堤築立 新田開墾
慶応2(1866)年 三財村門田 新井出新堤築立
慶応2(1866)年 上富田村上村新田持堤築立
慶応2(1866)年 北那珂郡下田島徳の淵新田開墾塩止土手築立
慶応2(1866)年 上富田村大淵新田開墾塩止め土手築立
慶応2(1866)年 新田村仮迫より135間の水路を地中を掘り抜き、同村竹淵中村伊倉へ通水
明治2(1869)年 任民事局更正
明治2(1869)年 4等里正申しつけられる。
明治2(1869)年 任民事局灌
明治3(1870)年 新田村栗唐瀬新堤築立川井出用水路幅6尺余長さ1里余
明治4(1871)年 病気につき依願退職
明治8(1875)年 新田村伊倉新田開墾のための用水路を栗唐瀬より取り、途中水路地中を掘り抜き通水
明治8(1875)年 桑の木を植え養蚕技術を地区民に教える
明治23(1890)年 新田村中須に隠居養蚕室を建て製糸機を置き、県内養蚕の先駆者となる。
明治31(1898)年 死亡 享年74歳
郷土の先覚者シリーズ2 「金丸惣八の生涯」 より
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