いきいき健康課の若木家です。 今回は、お大師山公園の改葬された古墳と掩体壕についてご紹介します。 掩体壕とは、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫のことです。 航空自衛隊新田原基地周辺にある掩体壕は、旧陸軍の『新田原飛行場』が開設された関係で作られたコンクリート製のものです。 新田原飛行場が建設される前の新田原台地は、古墳(新田原古墳)と畑地が広がっていました。 掩体豪【1】(北側から) コンクリート造り、天井部分の厚さは約60cm 掩体豪【1】(東側から) 掩体豪【1】(西側から) 掩体豪【1】(東側から) 掩体豪【2】(東側から) 掩体豪【2】(南側から) 掩体豪【2】(東側から) 掩体豪【2】(掩体豪の内部) 新田原古墳は、昭和19年に国の史跡として指定されていましたが、飛行場建設に伴って、古墳42号、43号、44号、45号の4つの古墳が移転となりました。 特に石舟塚と呼ばれていた45号墳では、石棺が露出していたと記録されています。 お大師山公園(北側) お大師山公園(園内の桜道) 移転した古墳(お大師山公園) 45号墳(奥) 44号墳(左側) 42号墳(右側) 43号墳(手前) 石舟塚(45号墳)の標柱 標柱に記された『宮崎縣』の文字 「新富町史」によれば古墳は実物の約5分の1の大きさとなっている。 古墳の傍らには、古代人の魂を静かに見守るように桜の大木が寄り添っている。 ところで、これらの古墳の移転にあたっては、当時、ご陵墓参考地であったため、宮内庁から宮崎県知事あてに次のような書状が送られています。 「古墳は御陵墓の関係無きを保し難く、なるだけ其の現状の保存せらるることを希望」とあり、現状保存を希望していた様子がうかがわれます。 しかし、時局の関係で当該古墳は改葬となりました。 移転場所は、現在のお大師山公園にある球場の東側で、縮尺を5分の1にして改葬されています。(「新富町史」) 一方、飛行場建設に伴って建設された掩体壕は現在道路から4基確認できます。 本来の目的を終えた掩体壕と改葬された古墳は、当時の時代を知るうえで大変興味深いものです。
※「用語解説」内のリンクについてのご質問やご要望は、ウェブリオまでお問い合わせ下さい。