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             説明 
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             アカウミガメ及びその産卵地 
              
            指定年月日 
            昭和55年6月24日 
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            アカウミガメを含むウミガメは地球上で7~8種類存在するとされ、それらは絶滅危惧種に指定されています。日本近海ではアカウミガメ、アオウミガメ、タイマイが産卵のために砂浜に上陸します。 
            宮崎県の日向灘沿いは、全国有数のアカウミガメの産卵地で、毎年5月から8月頃にかけて産卵のために上陸してきます。本町の富田浜海岸には毎年200頭前後が上陸する県内でも有数の産卵地です。 
            アカウミガメは1回の上陸で1頭が約100個の卵を産みます。卵は卓球のピンポン玉のような形と大きさで、弾力性があります。巣穴からは約60日で子ガメが孵化して産卵穴から這い上がってきます。 
            海に向かった子ガメたちは、その後太平洋をアメリカ大陸西海岸へ向かう旅を行い、 
            その後親がめに成長したカメは日本から東シナ海近海に生息するとされていました。 
            近年の調査では、アメリカ大陸西岸部へ行く外海型と、日本近海で過ごす近海型が存在することが分かっています。 
              
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産卵のために上陸するアカウミガメ 産卵するアカウミガメ
 
 産卵のために上陸したアカウミガメは、約1時間ほどの時間をかけて卵をうみます。卵を
 生み始めるまでに、物音や明かりなどが近づいたら、産卵をやめて海に帰ってしまうことも
 あるので、気をつけましょう。
 卵を産み始めたカメの眼からは涙を流すように見えますが、これは海のなかにいたときに
 眼に入った海水を出す様子で、悲しいからではないようです。
 一度の産卵で80から120個の卵を産みます。後ろ足をうまくつかって穴を掘って、ま
 た埋めた後、産卵場所がわからないようにカモフラージュします。
 50日ほどたってから穴の中から孵化した子ガメたちが一斉に海へ帰っていきます。
    
        
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             富田村古墳 
            (とんだむらこふん) 
              
            指定年月日 
            昭和19年12月15日 
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            旧富田村にあった古墳を総称して富田村古墳といいます、その分布は現 
            在の大字上富田、三納代、日置の台地上で、総数58基が確認されます。 
            古墳時代中頃から後半にかけて円墳群が中心ですが、最近の調査で、「弁 
            指古墳」が墳丘60mに及ぶ前方後円墳であることがわかりました。古墳 
            時代前期における一ツ瀬川流域河口部を支配する首長墓と考えられ、平野 
            部を見渡す眺望の良い場所につくられています。 
             指定墳以外に未指定墳を多数含みます。 
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発掘調査された鐙古墳
 昭和54年に調査された鐙古墳からは主体部から蛇行剣が、古墳周辺から陶質土器が出土し注目されました。5世紀中頃に造られた群集墳の一つです。
 新富町で行う初めての学術調査でした。

 
北原牧地区の円墳群
 昭和62年に調査台地上の北原牧地区からは、円墳10基、方墳1基が土盛を失い、堀だけが残った状態で発見されました。
 近い位置で調査された上薗遺跡に住んでいた人々の墓と考えられ、6世紀後半を中心に造られた群集墳です。

 
弁指古墳のクビレ部
 平成17年に調査した弁指古墳は
 やや長くて低い前方部を有していま 
した。発掘調査では前方部から後円部とがつながる部分「クビレ部」を確認することができました。

    
        
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             番号 
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             新田神楽 
            (にゅうたかぐら) 
              
              
            町指定年月日:昭和46年1月1日 
            県指定年月日: 
            令和2年9月14日 
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             始まりは不明ですが、古くから新田八幡神社を中心に旧新田村で親しまれる神楽です。旧佐土原藩で近い位置にある 巨田神楽(宮崎市佐土原町)などに似るともいわれます。 
            毎年2月17日の同神社の春の大祭で33番が奉納されるほか、旧新田村の各地区の秋祭りや古墳祭などで奉納されます。 
            春の大祭は朝5時から夕方近くまで公開される昼神楽です。 
            近年は子ども神楽の育成も盛んで、後継者育成に力をいれています。 
              
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             神楽の舞台上に施される「天がい」 
              
              
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             子どもによる鬼神 
             
              
              
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             勇壮な蛇切り 
             
              
              
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新田神楽は秋から冬にかけて旧新田村の各地区の祭りや、古墳祭でも公開されますが、新田八幡神社の春の大祭が一番の見どころです。特に蛇切りは、わらでつくった2匹の大蛇を真剣で切りつける様を表現しており、勇壮そのものです。
 
 
						
					 
				
					
						
						
    
        
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             薬師如来像(やくしにょらいぞう) 
              
            (昭和48年4月1日) 
              
              
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             もともとは新富町大字三納代字篠目にあった「蓮台寺(れんだいじ)」というお寺の本尊だったようで、明治時代始めにあった廃仏毀釈でお寺がなくなり、地域で保管するようになったようです。 
            一木造りで、背中には舟形の光背を施します。本来は金箔が施してあったようですが、後世に補修されて青色の顔料が塗られたようです。 
            鎌倉時代の京仏師の作と考えらます。 
              
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             元禄坊主踊り(げんろくぼうずおどり) 
              
            (昭和47年2月10日) 
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            大字三納代の宮之首・平伊倉・矢床・奥の4ケ地区を中心に伝えられる踊りです。踊りの始まりは江戸時代後半ともいわれ、明治の中ごろに、宮之首地区の人々が町内の上日置地区から習い、その後、昭和8年に再び、町内の鬼付女地区に習い復興させたといいます。 
            戦後再び低迷していましたが、昭和40年代になって4ケ地区の青年団員が活動の一環として踊りを再開しました。 
            踊りには、嫁女と奴が仲むつまじくしているところに、坊主が邪魔をして入るというストーリー性があり、歌舞伎の見得に近い所作が含まれるなど芸能性が高いものです。 
            毎年、旧暦の8月15日の厳島神社祭りにあわせ、町内を巡回して公開し、その舞踊としての性格は水神祈祷、五穀豊穣の祈りがあります。 
              
            現在、一般公開は休止しています。 
              
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 元禄坊主踊りは、嫁女と奴、坊主の1組で構成されています。特に坊主が見ている皆さんのところに飛び出す所作は観客を沸かせます。かつては嫁女役を男が演じていました。
    
        
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             湯之宮棒踊り(ゆのみやぼうおどり) 
              
            (昭和50年4月1日) 
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            「棒踊り」の始まりは、戦国時代に薩摩藩が朝鮮半島に渡った際に、軍の指揮を鼓舞するために舞われたのが最初といわれますが、もともと南九州に色濃く残った東アジア一帯に広がる踊りという節もあります。 
            その後、薩摩藩にいわれのある各地に広がり、湯之宮地区には明治20年頃、近隣の宮崎市佐土原町や町内の今町地区から伝えられたようです。 
            戦後、伝承は衰退していましたが、昭和49年に湯之宮地区が「人づくり運動モデル地区」に指定されたことから、地区の青壮年部を中心に棒踊りを復活させ、今にいたっています。 
            踊りは踊り手4人1組の6組24人、音頭2人、鐘3人、太鼓1人の30名で構成されます。服装は、浴衣にたすきがけ、手甲と脚半をつけ、頭には鉢巻きと毛がらしをつけます。用具は六尺棒と剣、木刀を用い、踊りは「六人立」「切りまぜ」「棒踊り」の3種類があります。音頭や鐘、太鼓にあわせて打ち合う姿は勇壮そのものです。 
              
            現在、一般公開は休止しています。 
              
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湯之宮棒踊り保存会のみなさん

 
湯之宮神社で公開される勇壮な踊り

 湯之宮棒踊りは、湯之宮地区の男性だけで継承されている踊りです。かつては、町内を巡回して公開していたこともあり、地域の風物詩として有名です。
湯之宮地区の秋祭りで、神社境内で奉納・公開されていましたが、現在は一般公開は休止中です。
 
    
        
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             春日(かすが)のいちょう 
             (昭和47年4月1日) 
              
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            大字新田の春日地区にあるイチョウの木です。高さ40m、幹周り12mあり、樹齢は400年ともいわれます。かつては寺の境内にあったといわれ、その様子は、栗唐瀬から遠謀できたといいます。 
             江戸時代、水戸藩で徳川光圀が編纂していた「大日本史」の作業にくわわっており、時代劇「水戸黄門」における助さんのモチーフといわれる佐々介三郎が、全国を巡見した際に、この地を訪れたといい、往時の姿を今に伝えます。 
              
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