国指定文化財

湯ノ宮の座論梅の詳細

番号

名称・指定日

内容

1

湯ノ宮の座論梅
(ゆのみやのざろんばい)

指定年月日
昭和10年12月24日

 湯之宮地区にある野生種の古い梅園です。もとは1本の木から増えたと言われ、神武天皇が立てた梅の木の杖から芽ぶき、元木になったとの言い伝えがありますが、その始まりは定かではありません。江戸時代の文献に歌が登場することから、今から300年前には今の梅園として有名だったようです。
 現在60株以上の株があり、白い一重の花を咲かせます。国内に梅の国指定天然記念物は5ヶ所しかなく、江戸時代には、鹿児島県薩摩川内市東郷町の藤川天神梅、宮崎市高岡町の月知梅とともに、「三州三梅」と呼ばれました。
 「座論梅」のいわれは、「ザロミ」という梅の品種からきたという説や、人々が集って話し合う様子からきたという説、江戸時代の藩境の協議がここであったからという説などがあります。
 座論梅の木は、成長して大きくなると、龍が地面をはうような形になります。このような性質の梅を「臥龍性のある梅」、あるいは「臥龍梅」と呼び、古いタイプの梅によく見られます。一説には、地についた枝から新しい木ができて増えたとも言われています。

太い幹が地面を這うように横へ伸びた大きな梅の木が白い花を無数に咲かせている座論梅の写真

座論梅の園内の様子

細い枝先に黄色い雄しべや小さな蕾まで鮮明に映し出して、白く可憐な梅の花がいくつか寄り添うように咲いている写真

座論梅の花

新田原古墳群の詳細

番号

名称・指定日

内容

2

新田原古墳群
(にゅうたばるこふんぐん)

指定年月日
昭和19年11月13日

 総数207基の古墳が旧新田村、町の北西部を中心に点在します。その集中部は祇園原(ぎおんばる)古墳群・山之坊(やまのぼう)古墳群・石船(いしふね)古墳群・塚原(つかばる)古墳群の4つの古墳群に分けられます。
 なかでも祇園原古墳群は、4つの古墳群の中で最大の規模であり、古墳時代後期で宮崎県内最大の首長たちの墓があります。平成4年より圃場整備のために実施された発掘調査では、50基以上の古墳の痕跡が発見されており、古墳が造られた当時はより多くの古墳が存在したと考えられています。
石船古墳群は、戦前に陸軍の飛行場建設に伴い発掘調査が行われており、様々な副葬品が出土したとされています。調査後に移転され、現在は御大師山(おだいしやま)公園に所在します。

百足塚古墳

 百足塚古墳は祇園原古墳群にある前方後円墳うちの1基です。祇園古墳群の中では、4番目に大きい古墳となります。
 平成9年から16年に整備のために発掘調査が行われています。調査の結果、全長82メートルの2段に造られた前方後円墳であり、埋葬施設が横穴式石室であったことがわかりました。古墳の周囲には盾形周溝と呼ばれる溝(内周溝)が掘られ、さらにその周囲を堤(周堤)が巡っています。一部ですが、堤のさらに外にもう一つ周溝(外周溝)が掘られている部分もありました。
 また、百足塚古墳からは様々な種類の埴輪が出土しています。墳頂部やテラス、周堤には円筒埴輪が約1000本並べてありました。西側の周堤には人物や動物などの形象埴輪が60個体以上配置されていたようです。

広大な田畑が整然と区画された平野の中に、鍵穴のような形をした前方後円墳や円墳が点在しており、手前には白い屋根の建物や木々、遠くには霞んだ山々が広がる、歴史的遺構と農地が共存する風景を俯瞰で捉えた写真
平坦に整地された広大な黒い土の敷地中央に、円形に盛り土がなされた前方後円墳のような遺跡が保存されており、その周囲を緑の畑や農道、白い屋根の建物が囲んでいる様子を上空から写した写真
宮崎県百足塚古墳出土埴輪の詳細

番号

名称・指定日

内容

3

宮崎県百足塚古墳出土埴輪
(みやざきけんむかでづかこふんしゅつどはにわ)

指定予定年令和7年

 平成9年から16年にかけて行われた発掘調査で、百足塚古墳の墳丘や周堤、周溝から多数の埴輪が発見されました。特に西側周堤の周辺を中心に、全体像が分かる形象埴輪が多数出土しています。
 形象埴輪は、人物や動物、家や柵、甲冑や大刀や盾、太鼓など様々な種類におよびます。九州南部では埴輪を持つ古墳は少なく、これほど豊富な種類と量の埴輪を持つ古墳は今のところ百足塚古墳のみとなります。
 形象埴輪は、出土状況から西側の周堤の上にまとまって配置されていたと考えられています。埴輪の種類と配置が、継体天皇陵だと考えられている今城塚古墳によく似ていることから、百足塚古墳の被葬者はヤマト政権と関係があったことがうかがえます。
 また、隣接する陪塚の新田原62号墳からは、大きさや形状が同じ円筒埴輪が出土しており、百足塚古墳の円筒埴輪と同時期に生産されたとみられます。しかし、百足塚古墳のものに比べ焼き歪みや変形が激しいことから、それぞれの古墳に並べる埴輪へ区別があったと考えられます。
家や盾の形をしたものから、盾を持つ人や馬、鶏などの動物、そして装飾を身に着けた女性などを象った大小様々な種類の埴輪が並べられている写真

百足塚古墳出土埴輪

緩やかな丘のような古墳の麓に、長方形に区画された発掘調査現場が広がっており、作業服を着た数名の調査員が地面に膝をついて土器や遺構を慎重に掘り出している調査の様子を捉えた写真

出土状況

素焼きの質感を持った人型の埴輪であり、豊かな胸の膨らみやスカートのような形状の裾、微笑んでいるような柔らかな表情が特徴的な踊る女性埴輪の写真

踊る女性埴輪
 両肩から帯をたすき掛けし、右手で服の裾をまくっている様子が表現されています。
髪は島田髷状にし、首には装飾品を身に着けています。
性別がはっきりとわかる表現や、女性埴輪では両足が形作られていることが特徴です。
踊る様子を表現しているとみられます。

丸みを帯びた器の胴体部分、右側には円盤状の蓋のようなパーツが置かれ、表面には波状の文様や細かな凹凸が施され修復された赤茶色の素焼きの太鼓形埴輪の写真

太鼓形埴輪
 側面や下の面に文様を施し、側面には皮を鋲で留めた表現がなされています。
一部に赤色顔料が残っています。
太鼓単体の出土は、百足塚古墳が全国で初でした。
現在も全国で4例しか出土しておらず大変珍しい埴輪です。

県指定文化財

アカウミガメ及びその産卵地の詳細

番号

名称・指定日

説明

1

アカウミガメ及びその産卵地

指定年月日
昭和55年6月24日

アカウミガメを含むウミガメは地球上で7~8種類存在するとされ、それらは絶滅危惧種に指定されています。日本近海ではアカウミガメ、アオウミガメ、タイマイが産卵のために砂浜に上陸します。
宮崎県の日向灘沿いは、全国有数のアカウミガメの産卵地で、毎年5月から8月頃にかけて産卵のために上陸してきます。本町の富田浜海岸には毎年200頭前後が上陸する県内でも有数の産卵地です。
アカウミガメは1回の上陸で1頭が約100個の卵を産みます。卵は卓球のピンポン玉のような形と大きさで、弾力性があります。巣穴からは約60日で子ガメが孵化して産卵穴から這い上がってきます。
海に向かった子ガメたちは、その後太平洋をアメリカ大陸西海岸へ向かう旅を行い、
その後親がめに成長したカメは日本から東シナ海近海に生息するとされていました。
近年の調査では、アメリカ大陸西岸部へ行く外海型と、日本近海で過ごす近海型が存在することが分かっています。

夜の暗い砂浜で、茶色い甲羅を持つ大きなウミガメが湿った砂を甲羅や顔に付着させながら砂を掘り起こしながら移動しているよう様子を正面から捉えている写真

産卵のために上陸するアカウミガメ

夜の暗い砂浜で大きなウミガメが後ろ向きに座り込み、砂に掘られた穴の中へ白くて丸い卵を複数産み落としている様子を背後から捉えた、貴重な産卵シーンの写真

産卵するアカウミガメ

産卵のために上陸したアカウミガメは、約1時間ほどの時間をかけて卵をうみます。卵を生み始めるまでに、物音や明かりなどが近づいたら、産卵をやめて海に帰ってしまうこともあるので、気をつけましょう。
卵を産み始めたカメの眼からは涙を流すように見えますが、これは海のなかにいたときに眼に入った海水を出す様子で、悲しいからではないようです。
一度の産卵で80から120個の卵を産みます。後ろ足をうまくつかって穴を掘って、また埋めた後、産卵場所がわからないようにカモフラージュします。
50日ほどたってから穴の中から孵化した子ガメたちが一斉に海へ帰っていきます。

富田村古墳の詳細


名称・指定日

説明

2

富田村古墳
(とんだむらこふん)

指定年月日
昭和19年12月15日

旧富田村にあった古墳を総称して富田村古墳といいます、その分布は現在の大字上富田、三納代、日置の台地上で、総数58基が確認されます。
古墳時代中頃から後半にかけて円墳群が中心ですが、最近の調査で、「弁指古墳」が墳丘60メートルに及ぶ前方後円墳であることがわかりました。古墳時代前期における一ツ瀬川流域河口部を支配する首長墓と考えられ、平野部を見渡す眺望の良い場所につくられています。
指定墳以外に未指定墳を多数含みます。

発掘調査された鐙古墳
昭和54年に調査された鐙古墳からは主体部から蛇行剣が、古墳周辺から陶質土器が出土し注目されました。5世紀中頃に造られた群集墳の一つです。
新富町で行う初めての学術調査でした。

見晴らしの良い高台にある発掘調査現場にて、円形状に石が敷き詰められた配石遺構が土の中から露出しており、周囲では作業員が調査を行う様子や遠方に広がる平野部までを一望できる様子を写した写真

北原牧地区の円墳群
昭和62年に調査台地上の北原牧地区からは、円墳10基、方墳1基が土盛を失い、堀だけが残った状態で発見されました。
近い位置で調査された上薗遺跡に住んでいた人々の墓と考えられ、6世紀後半を中心に造られた群集墳です。

広大な土地を真上から見下ろした航空写真で、黒っぽい土が露出した発掘調査現場らしき場所に複数の円形遺構が点在しており、隣接する緑色の畑や道路、重機、建物などからその規模の大きさが伝わる写真

弁指古墳のクビレ部
平成17年に調査した弁指古墳はやや長くて低い前方部を有していました。発掘調査では前方部から後円部とがつながる部分「クビレ部」を確認することができました。

土を四角く掘り下げた発掘調査のトレンチ内部において、大きさの異なる丸みを帯びた河原石のような石が縦長に密集して敷き詰められている様子を斜め上から近距離で撮影した、前方部から後円部とがつながる部分「クビレ部」を写した写真
新田神楽の詳細

番号

名称・指定日

見どころ

3

新田神楽
(にゅうたかぐら)

  • 町指定年月日:昭和46年1月1日
  • 県指定年月日:令和2年9月14日

始まりは不明ですが、古くから新田八幡神社を中心に旧新田村で親しまれる神楽です。旧佐土原藩で近い位置にある 巨田神楽(宮崎市佐土原町)などに似るともいわれます。
毎年2月17日の同神社の春の大祭で33番が奉納されるほか、旧新田村の各地区の秋祭りや古墳祭などで奉納されます。
春の大祭は朝5時から夕方近くまで公開される昼神楽です。
近年は子ども神楽の育成も盛んで、後継者育成に力をいれています。

中央の大きな常緑樹の枝葉から、色鮮やかな緑・赤・黄の御幣や、白い紙に赤い模様が施された多数の飾りが放射状に突き出し、周囲へと白い帯が伸びている「天がい」の写真

神楽の舞台上に施される「天がい」

屋外に設営された舞台の上で、白髪と恐ろしい形相の面をつけ、鮮やかな赤い袴を纏った人物が、黄色・緑・赤の三色の飾りが付いた道具を手に持って舞を披露している写真

子どもによる鬼神

多くの見物人に囲まれた屋外の祭事場にて、白い装束と赤い袴を身に纏い、白い布で鉢巻をした舞い手が、蛇にみたてた太い注連縄の上で真剣を構えて精神を集中させている、緊迫感あふれる勇壮な蛇切りを捉えた写真

勇壮な蛇切り

新田神楽は秋から冬にかけて旧新田村の各地区の祭りや、古墳祭でも公開されますが、新田八幡神社の春の大祭が一番の見どころです。特に蛇切りは、わらでつくった2匹の大蛇を真剣で切りつける様を表現しており、勇壮そのものです。

町指定文化財

薬師如来像の詳細

番号

名称・指定日

見どころ

1

薬師如来像(やくしにょらいぞう)

(昭和48年4月1日)

木製の厨子の中に安置された、渦巻き状の文様が刻まれた大きな光背を背負い、蓮華座の上に立つ木造の仏像立像を正面から捉えており、青い着色の一部が残る台座など、長い年月を経た独特の風合いと歴史的重みを伝える薬師如来像の写真
 

もともとは新富町大字三納代字篠目にあった「蓮台寺(れんだいじ)」というお寺の本尊だったようで、明治時代始めにあった廃仏毀釈でお寺がなくなり、地域で保管するようになったようです。
一木造りで、背中には舟形の光背を施します。本来は金箔が施してあったようですが、後世に補修されて青色の顔料が塗られたようです。
鎌倉時代の京仏師の作と考えらます。

元禄坊主踊りの詳細

番号

名称・指定日

見どころ

2

元禄坊主踊り(げんろくぼうずおどり)

(昭和47年2月10日)

大字三納代の宮之首・平伊倉・矢床・奥の4ケ地区を中心に伝えられる踊りです。踊りの始まりは江戸時代後半ともいわれ、明治の中ごろに、宮之首地区の人々が町内の上日置地区から習い、その後、昭和8年に再び、町内の鬼付女地区に習い復興させたといいます。
戦後再び低迷していましたが、昭和40年代になって4ケ地区の青年団員が活動の一環として踊りを再開しました。
踊りには、嫁女と奴が仲むつまじくしているところに、坊主が邪魔をして入るというストーリー性があり、歌舞伎の見得に近い所作が含まれるなど芸能性が高いものです。
毎年、旧暦の8月15日の厳島神社祭りにあわせ、町内を巡回して公開し、その舞踊としての性格は水神祈祷、五穀豊穣の祈りがあります。
現在、一般公開は休止しています。

白い頭巾に紫の着物姿の「嫁女」が扇を持って舞い、刀を構えた「奴」や瓢箪を腰に下げた「坊主」が力強く踊る伝統行事「坊主踊り」の各配役の様子を捉えた、説明用の文字を含む4枚の構成写真

元禄坊主踊りは、嫁女と奴、坊主の1組で構成されています。特に坊主が見ている皆さんのところに飛び出す所作は観客を沸かせます。かつては嫁女役を男が演じていました。

湯之宮棒踊りの詳細

番号

名称・指定日

見どころ

3

湯之宮棒踊り(ゆのみやぼうおどり)

(昭和50年4月1日)

「棒踊り」の始まりは、戦国時代に薩摩藩が朝鮮半島に渡った際に、軍の指揮を鼓舞するために舞われたのが最初といわれますが、もともと南九州に色濃く残った東アジア一帯に広がる踊りという節もあります。
その後、薩摩藩にいわれのある各地に広がり、湯之宮地区には明治20年頃、近隣の宮崎市佐土原町や町内の今町地区から伝えられたようです。
戦後、伝承は衰退していましたが、昭和49年に湯之宮地区が「人づくり運動モデル地区」に指定されたことから、地区の青壮年部を中心に棒踊りを復活させ、今にいたっています。
踊りは踊り手4人1組の6組24人、音頭2人、鐘3人、太鼓1人の30名で構成されます。服装は、浴衣にたすきがけ、手甲と脚半をつけ、頭には鉢巻きと毛がらしをつけます。用具は六尺棒と剣、木刀を用い、踊りは「六人立」「切りまぜ」「棒踊り」の3種類があります。音頭や鐘、太鼓にあわせて打ち合う姿は勇壮そのものです。

現在、一般公開は休止しています。

青空の下、左端には「奉納 湯之宮棒おどり」と記された幟が掲げられ、神社の鳥居の前に伝統的な祭礼衣装を身にまとった保存会の男性たちが勢揃いしている写真

湯之宮棒踊り保存会のみなさん

木々に囲まれた神社内の広場で、編み笠を被り白と紺の紋様の着物に赤い襷を掛けた複数の男性たちが、剣を手に持ち力強く演舞を披露している、伝統芸能「棒おどり」の躍動感あふれる奉納儀式の写真

湯之宮神社で公開される勇壮な踊り

湯之宮棒踊りは、湯之宮地区の男性だけで継承されている踊りです。かつては、町内を巡回して公開していたこともあり、地域の風物詩として有名です。
湯之宮地区の秋祭りで、神社境内で奉納・公開されていましたが、現在は一般公開は休止中です。

春日のいちょうの詳細

番号

名称・指定日

見どころ

5

春日(かすが)のいちょう
(昭和47年4月1日)
夕日に照らされ黄金色に輝く無数の葉を蓄えた巨大なイチョウの木を、ゴツゴツとした力強い樹皮が刻まれた太い幹の根元から見上げるようなアングルで捉えた巨樹春日のいちょうの写真

大字新田の春日地区にあるイチョウの木です。高さ40メートル、幹周り12メートルあり、樹齢は400年ともいわれます。かつては寺の境内にあったといわれ、その様子は、栗唐瀬から遠謀できたといいます。
江戸時代、水戸藩で徳川光圀が編纂していた「大日本史」の作業にくわわっており、時代劇「水戸黄門」における助さんのモチーフといわれる佐々介三郎が、全国を巡見した際に、この地を訪れたといい、往時の姿を今に伝えます。

未指定の無形民俗文化財

三納代神楽の詳細

番号

名称・指定日

見どころ

 

三納代神楽(みなしろかぐら)

三納代神楽は、三納代八幡神社を中心に伝承される神楽です。大字三納代一帯の地区の祭りや、同神社の大祭などで奉納されます。
また、旧高鍋藩の6つの神社が参加して合同して行われる「高鍋神楽六社連合大神事」では33番の多くを三納代神楽保存会の怜人で担うなど、活動が盛んな神楽の一つです。

夜の静寂に包まれた屋外の特設舞台において、華やかな花飾りを頭に乗せ、金色の紋様が施された豪華な衣装を纏った三人の若者が、手に刀を持ちながら一斉に力強く躍動する、伝統的な夜神楽の奉納演舞を捉えた写真
夜の静かな神楽舞台において、白く穏やかな表情の面と黒い長髪をつけ、金色の丸紋が散りばめられた豪華な白い装束に赤い袴を纏った舞い手が、一本の長い竹の棒を水平に保持しながら舞を披露する神聖な夜神楽のワンシーンの写真
夜の神楽舞台において、頭に鮮やかな花飾りを載せ、清らかな白い装束と袴を身にまとった四人の舞い手が、右手に金色の鈴を持ち、左手で色とりどりの飾りが付いた道具を掲げながら一列に並んで舞う、厳かで活気ある奉納行事のワンシーンの写真

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課
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