児玉勝己

ここはわたし達の住む町から、輩出された先覚者の生き様を知るコーナーです。
彼らは何を学び、何を考え行動したのでしょう。その人となりを紹介します。

明るい黄色の照明に包まれたホールで、赤い椅子に座りステージを見つめる大勢の観客の後ろ姿を描いた、講演会の様子のイラスト

新富町出身、児玉勝己さん指導・指揮する「エコー・ハンドベル・リンガーズ」による、カーネギーホールでの初めてのハンドベル演奏会は大成功のうちに幕を閉じました。

ホールいっぱいにつめかけた聴衆は、美しい音色を響かせた演奏が終わると、いっせいに立ち上がって、盛んな拍手を送りました。

左上に赤ん坊を抱く女性を家族が笑顔で囲む場面と、右下に小さな子どもがじょうろで黄色い花に水をあげる場面の二つを描いたイラスト

児玉勝己さんは、昭和20年5月11日。新富町新田で、児玉豊さん・仁子さんの三男として誕生しました。草花の好きな、心のやさしい勝己少年は、近所の誰とでも仲良く遊び、大人や子どもから親しみを込めて「かつみちゃん」と呼ばれ、みんなから愛されました。

左上に二本の石柱が立つ門の間を親子が手をつないで歩く屋外の光景と、右下に教室の机に座る子どもたちの中で一人の男の子が元気に手を挙げている授業風景の二つの場面を描いたイラスト

勝己少年は、昭和27年4月、家のすぐ近くにある、新田小学校に入学しました。小学校では、みんなと仲良く過ごし、勉強にも一生懸命がんばったので、成績もとても優秀でした。

木造校舎を背景に、大きな藤棚の下で元気に走り回ったり地面に座り込んだりして遊ぶ子どもたちの姿を描いた懐かしい学校の休み時間の風景のイラスト

学校の休み時間は、藤だなの楠の木の下で、友だちと「かんけり」「陣取り」や「馬乗り」などの遊びに夢中でした。

左上に校庭の鉄棒の前で縄跳びの輪に入って元気に走る三人の子どもたちの場面、右下に傍らでしゃがみ込みながら赤い花の鉢植えを熱心に観察して記録をつける男の子の姿の場面を描いた学校生活の日常のイラスト

家でも近所の子どもや学校の友だちがよく集まり、電車ごっこなどをして仲良く遊びました。

また勝己少年は、「絵かき」が大好きで、ひまさえあればえんぴつやクレヨンを走らせていました。

木製のステージの上で、緊張した面持ちで並んで立つ男の子と女の子の姿を、舞台脇の赤い幕から女性が見守る様子を描いた学校行事の発表会のイラスト

4年生の時の学習発表会で、友だちと二人で「とんび」をかわるがわる独唱しました。この頃「音楽」を愛する心が芽生えました。

日の丸が掲げられた黄色い壁のステージで、壇上の校長先生から卒業証書を受け取る生徒の背中と、それを見守る制服姿の生徒たちの後姿を描いた卒業式の様子のイラスト

新田小学校を6年間無欠席で卒業し、すぐ隣にある新田中学校に入学しました。当時この中学校には、新田小学校と上新田小学校の児童が進学していましたが、すぐ誰とでも仲良くなりました。

右上に緑豊かな木々に囲まれた風情ある木造校舎の外観、左下に教室内で机に向かい真剣な表情でノートに筆を走らせる二人の学生の姿を描いたイラスト

新田中学校でも友だちと熱心に学習に励み、人や自然にとてもやさしい人柄は、誰からも愛されました。

左下に田舎の未舗装路を黒い学生服姿で自転車を漕ぐ学生の姿、右上にタクトを持った先生の前で口を開けて声楽のレッスンを受ける学生の場面を描いた学校生活のイラスト

1年生の頃、将来は音楽家になろうと決心しました。両親を説得して、宮崎大学の二人の先生に「ピアノ」と「声楽」のレッスンを受ける事になり、宮崎市まで自転車や汽車でせっせと通いました。

楽譜を置いた黒いアップライトピアノの前に座り真剣な表情で鍵盤を叩く男性と、その傍らで腕を動かしながら歌唱指導や指揮をしているような女性の姿を描いた音楽の練習風景のイラスト

やがて、中学校の音楽大会などで、合唱のピアノ伴奏を受け持つようになりましたが、当時は、男子生徒のピアノ伴奏は、人々から大変珍しがられました。

青空の下、木造校舎の前に豊かな緑や南国風の樹木が植えられ、中央には文字が刻まれた石碑、その隣に掲示板が並ぶ静かな庭園のような風景を描いた、学校の校庭のイラスト

新田中学校を卒業すると、西都市にある県立妻高等学校に入学し、一生懸命勉強しました。ここでも、音楽の勉強を熱心に続けました。

青空の下、白いテントが並ぶグラウンドのトラックで、女装している赤いドレスを着た子と赤い帽子をかぶった子が、楽しそうに仮想行列に参加している運動会の風景を描いたイラスト

高校の体育祭の時、仮装行列に「女装」して参加し、それがまた大変 似合っていて面白かったので、生徒や観客からやんやの拍手喝采を受けたことが、今でも、語り草になっています。

明るい黄色の背景の中、黒い服を着た人物の前で、笑顔を浮かべた男女数名のグループが親しげに集まり対話をしているような様子描いた、人々の交流を表現しているイラスト

また高校生の頃、父母の集まりなどの合間に自分から進んで、父母を相手に合唱や輪唱の音頭をとって、みんなをあっと驚かせたり、喜ばせたりしました。

ゆるやかにカーブする茶色の道の先に、緑豊かな木々に囲まれた校舎やアーチ状の屋根を持つ建物が佇む風景を描いた、自然豊かな学校の全景を表現しているイラスト

妻高等学校を卒業すると、音楽家を目指すために、東京にある国立音楽大学に入学しました。
国立音楽大学では、教授に、音楽に対する感性や情熱を大変ほめられ、それを励みに、音楽家の道を目指してひたすら頑張りました。
そして、国内だけでなく海外にも出かけて、熱心に合唱や指揮などの演奏活動を続けました。

明るい黄色の背景の前で、お揃いの黒いスーツと蝶ネクタイを身につけた四人の人物が、口を大きく開けて情熱的に歌い上げている合唱のワンシーンを描いたイラスト

大学を卒業すると、東京の高等学校の音楽の先生になりました。

生徒に音楽を指導するかたわら、自らも、音楽仲間と合唱や指揮の学習に励みました。

明るい黄色の壁に囲まれた静かな室内で、机に向かいコーヒーカップを前に目を閉じ、心地よい音色に耳を傾けリラックスしている男性の姿を描いたイラスト

外国の演奏旅行の途中、アメリカのロサンゼルスで、ふと、聞きなれない不思議な、美しい音色を耳にしました。それが児玉先生とハンドベルとの初めての出会いでした。

明るい黄色の背景の前で、机の上に置かれた長方形の段ボール箱の蓋を両手で丁寧に開けようとしている一人の人物の姿を描いた作業の様子のイラスト

児玉先生は、帰国するとさっそく「ハンドベル」をアメリカから取り寄せ、指導者のいない一人だけの猛勉強が始まりました。

茶色の大きな机を囲み、楽譜を確認しながら金色のハンドベルを手に取って練習に励む三人の若者の姿を描いたイラスト

まもなく、学校や近所の人達を誘ってハンドベル演奏の熱心な学習を始め、やがて、あちこちで演奏するまでになりました。

赤い布が掛けられたステージの上で、お揃いの白いスーツを着た四人の奏者が金色のハンドベルを高く掲げ、指揮者の合図に合わせて一斉に音を奏でる美しい演奏風景を描いたイラスト

そのうちに、ヨーロッパやアメリカの演奏会に招待されるようになり、それとともに、名指揮者「児玉勝己」の名声も、急速に高まっていきました。
そして、ついに世界的指揮者として認められました。

明るい黄色の背景の前で、一人の女性と二人の男性がそれぞれ金色のハンドベルを持ち、お互いのベルを近づけながら楽しそうに合奏の練習をしている様子を描いたイラスト

アメリカのウエストミンスタークワイア大学に招かれ、しばらくの間、外国の人を相手に音楽の指導や勉強もしました。

緑色の背景の前で、大きな木の机を囲みながら真剣な表情で手紙に目を通している、青い服を着た男性とオレンジ色の服を着た眼鏡の女性の姿を描いたイラスト

忙しい海外での演奏旅行やアメリカ留学中も両親やなつかしいふるさとのことを片時も忘れずに、まめに手紙を書いて送りました。

水色の背景の中、左側でタキシード姿の指揮者が指示を出し、右側でお揃いの黄色い衣装を着た四人の奏者が、一斉に金色のハンドベルを高く掲げて音を奏でている演奏会のワンシーンを描いたイラスト

日本に帰国してからも、ハンドベル演奏を普及させるため、国内のあちこちの指導や演奏活動に飛び回る忙しい日々が続きました。

客席に座る観客の後ろ姿越しに、ステージ上でタキシード姿の指揮者が右手を差し出し、壇上に並ぶハンドベル奏者たちへ合図を送るシーンを描いた演奏会のイラスト

宮崎市に新しくできたMRT会館の落成式に招かれ、宮崎の人達にもハンドベル演奏のすばらしさを披露し、深い感動を与えました。

明るい水色の背景を背に、オレンジ色のジャケットに赤いネクタイを締め、口を大きく開けて朗らかに歌ったりしている一人の男性の姿を描いたイラスト

そんな忙しい中でも、ふるさとのことを忘れませんでした。
心に残る新田小・中時代の同窓会に出席し、校歌を見事に独唱してみせて、同窓生一同をうならせました。

薄い緑色の壁の室内で、大きな木の机を挟んで向き合い、青いスーツを着た人物が身振り手振りを交えながら白いシャツの人物へ穏やかに話しかけている風景を描いたイラスト

また、予告なしに小学生・中学生時代の恩師を訪ねては、先生を驚かせたり、喜ばせたりもしました。

机の上に置かれた黒いリボンがかけられた遺影の男性の前に、金色のハンドベルと下に敷かれた楽譜を描いた故人を偲ぶイラスト

このように、熱心な指導の日々を続けていましたが、平成2年3月八日、病気のため、大勢の人達に惜しまれつつ東京都立川市の自宅で、亡くなりました。また、44歳の若さでした。

茶色の背景の前で、ベストを着用した四人の子どもたちが一列に並び、一斉に金色のハンドベルを高く掲げて音を奏でている合奏の様子を描いたイラスト

母校では、音楽会や学習発表会で、必ずハンドベルのはいった曲を演奏し、先輩であり、郷土の偉大な音楽家である児玉勝己先生をしのんでいます。

緑色の壁と黄色い扉がある室内で、赤い炬燵を囲んで座る三人の人物が、壁側の棚の上にあるラジオから流れる音楽に耳を傾けながら穏やかに過ごしている様子を描いた日常の風景を表現するイラスト

新富町では、毎日9時になると、各家庭にやさしいハンドベルの音楽が流れています。

児玉勝己のプロフィ-ル

  • 1945(昭和20)年5月11日 旧新田村で生まれる。
  • 1952(昭和27)年 旧新田村新田小学校へ入学
  • 1958(昭和33)年 旧新田村新田中学校へ入学
  • 1961(昭和36)年 宮崎県立妻高等学校へ入学
  • 1965(昭和40)年 東京の国立音楽大学へ入学
  • 1969(昭和44)年 大学卒業後東京の明治学院高等学校の音楽教師となる。
  • 1977(昭和52)年 合唱の指揮やソリストとして、アメリカ各地を演奏中ロスアンゼルスでハンドベルの美しい音楽に魅せられ帰国後ほぼ独学で、奏法の研究を始める
  • 1980(昭和55)年 日本ハンドベル連盟の理事となる。
  • 1983(昭和58)年 全米ハンドベル指揮者大会のメインゲストとして招かれる。
  • 1984(昭和59)年 第1回ハンドベル世界大会に指揮者として参加する。
  • 1985(昭和60)年 全米ハンドベル指揮者大会で最上指揮者クラスの指揮講師に選ばれる。
  • 1986(昭和61)年 第2回ハンドベル世界大会に大会委員長音楽総監督として参加する。
  • 1987(昭和62)年 プリンストンのウエストミンスタークワイカレッジの客員講師となる。
  • 1988(昭和63)年 レーガン大統領の特別招待で、ホワイトハウスのクリスマスコンサートで演奏し多くの聴衆に深い感動を与えた(エコー.ハンドベル.リンガースを率いて)
  • 1990(平成2)年 音楽家としての前途や、人柄を惜しまれつつ病気のために亡くなる(享年44歳)

郷土の先覚者シリーズ1 「児玉勝己の生涯」より

金丸惣八

ここはわたし達の住む町から、輩出された先覚者の生き様を知るコーナーです。
彼らは何を学び、何を考え、行動したのでしょう。その人となるを学びましょう。郷土の先覚者シリーズ2 金丸惣八の生涯

遠くに送電塔や山並みが霞み一面に広がる黄金色の田んぼの中を貫く一本道を、麦わら帽子を被った二人の子どもが仲良く歩き、傍らを緑色の車が走り去るのどかな田園風景を描いたイラスト

夏休み.新吉君と富子さんは新田地区 柳瀬にあるおじいさんの家に遊びに行きました。その途中、黄金色に輝き、刈り入れを待つ美しい田んぼが広がっていました。「わあー、きらいだね。」「うん。とっても広いね。」
家につくとおじいさんに、途中の美しい田んぼの話をしました。おじいさんは、「こんなに広く美しい田んぼになるまでには、いろいろな困難なことがあったのじゃよ。」と江戸時代の終り頃から、明治時代の初めの頃の金丸惣八さんのお話を始めました

茅葺き屋根の建物の前で、横たわった人物を乗せた担架を運ぶ男性の後ろ姿と、その周りで手を合わせたり悲しげな表情を浮かべたりして見守る村人たちの姿を描いた江戸時代のイラスト

おじいさんのお話しによると、そのころは、この辺りの地区は水がないため米が作りにくく、生活が大変苦しかったそうです。
特に、江戸時代の終り頃は、日照りの害によりお米の取れない年が多かったそうです。
そのため、飢え死にする者も出たそうです。

床の間に掛け軸や盆栽が飾られた和室で、着物を身にまとった侍が幼い子どもを膝に乗せ、手前の男女に教えを説いているような場面を描いたイラスト

ちょうどそのころ、金丸惣八は児湯郡新田村の柳瀬というところに金丸景住の長男として生まれました。文政9(1825)年5月5日のことでした。
惣八はすくすくと成長し、若くして佐土原藩水利係の役人に任用されました。
惣八は、ご家老様のお供をしてたびたび京、大坂、江戸へ旅をしました。

障子のある和室で、中央に座る青い着物姿の侍を挟み、左側の桃色の着物を着た男性と、右側の黒い着物を着た男性が、深刻な面持ちで話し合いをしている様子を描いたイラスト

学問好きだった惣八は、旅に出る度にいろいろな書物を買って帰り自分で勉強したそうです。
いろいろな国の様子を見て、水さえあれば自分のふるさと佐土原藩でも、もっと米がとれることがわかりました。
こうして惣八は「水があれば佐土原藩はもっと豊かにできる。水を何とかしなければ」と思うようになりました。

川沿いの草木の向こうに広がる田畑を眺めながら、机の前で筆を手に取り腕を組んで考えにふける、和服を着た侍の姿が描かれたイラスト

惣八は、諸国は水を得るためにどんなことをしているのか、旅で見てきたことを振り返ってみました。その結果、田んぼの多いところは用水池、用水路等が自分の住む佐土原藩よりたくさん」あることがわかりました。

畳の部屋で深々と頭を下げて挨拶をする侍と、それを見つめる厳しい表情の侍や青い羽織を着た年配の侍などが描かれたイラスト

郷里に帰った惣八は。「人々の生活を豊かにするには水を引き、田んぼを多く作ることが必要だ」と考え始めました。そしてそのことを佐土原藩のお殿様に願い出ました。お殿様も大変喜び、田んぼを造る工事の許可を与えました。

惣八は大いに喜び、さっそく藩内各地に堰堤を築き用水池(ため池)をつくりました。また、用水路を造ったり、川の堤防を丈夫にしたりしました。何年もかかりましたが、新たにたくさんの田んぼが作れるようになり、藩内の多くの人々に大変感謝されました。

ところで、惣八の住む柳瀬村は、畑ばかりで田んぼは少なく米があまりとれません。そのため食べるお米さえよそから買わなければならず、村人は大変困っていました。「自分の村が苦しいのは米ができないからだ。米をとれるようにするには水がいる。水さえあれば」このとき惣八は何か深く心に決めたことがありました。

手前に座る指導者らしき侍たちの背後から、色とりどりの着物を着て整列し座っている大勢の村人たちを眺めた、江戸時代の集会を描いたイラスト

村人は、「そんなことができるはずがありません。第一どのようにして水を引くのですか。次にその工事にかかる費用はどうするのですか。」「貧しい村であることは 惣八さんもよくご存じでしょう。お金のかかることはできません。」といってほとんどの人から反対されました。何度も繰り返し繰り返し話しましたが聴いてもらえませんでした。

大きな木の根元に腰掛けた身分の高い侍が、膝の上で紙に筆を走らせる様子を、農作業の合間と思われる三人の農民が静かに見守っている様子を描いたイラスト

それでも惣八はあきらめません。次の日もその次の日も村人を訪ねては、米がとれるようになったらどれほど生活が豊かになるか、を説明してまわりました。毎日毎日村人を訪ねては「畑を田に変えよう。」と説いて回りました。惣八の履き物は擦り切れ、着物はほこりまみれです。
しかし惣八はへこたれません。「百万べんでも説明するぞ。わかってくれるまで続けるぞ。それが柳瀬村の人々を豊かにすることだから。」と説明に回り続けました。

広い畳敷きの部屋の奥に座る大勢の村人たちに向かって、手前に立つ一人の侍が背中を向けながら語りかけているイラスト

そんな生活が続いたある日の村の寄り合いの時、村長さんが、「惣八様、田んぼの必要なことはわかっています。でも、どのようにしてその費用を工面するのか、どうしても決心がつかなかったのです。しかし、米がとれるようになれば借金していても返すことができます。村のみんなと相談してやってみることに決まりました。」といいました。惣八は「やっと分かってくれましたか。ありがたい。でもここからが大変だな」と心を引き締めました。

笠を被り作業着を身にまとった農民たちが農作業に励む田畑の傍らで、家紋の入った羽織を着た役人らしき侍たちが測量棒を立てたり記録をつけたりして調査を行う検地の様子を描いたイラスト

それからの惣八の働きは大変めざましいものでした。柳瀬の土地の高さを測量したり、一ツ瀬川の水位を調べたり、用水路を引く場所を調べたりしてようやくどこに堰堤をつくるか決めました。その場所は、今の新富町と西都市の境にある瀬口の橋の上流にあたる栗唐瀬というところでした。

二基の行灯が周囲を明るく照らす中、緑色の着物を着た侍が広げた大きな紙を指し示しながら、周囲を囲む村人たちへ真剣な面持ちで説明を行っているイラスト

次は、水路を引く用地を手に入れる交渉に入りましたが、ここでまた難しい問題がおこりました。
それは水路を引く用地の大部分が佐土原藩の土地ではなく、幕府の土地、いわゆる天領だったのです。交渉はきわめて難しいものでした。「そんなことをしたら洪水になる」とか「用水路の敷地を手放したくない」などといって反対する天領の人々を、惣八は「公共の利益とは何か」を熱心に説き、持ち前のねばり強さで次々と承諾させていったのです。そしてついに用水路の敷地を手にいれる約束はできました。

裃を着用した二人の役人の侍の前で、一人の侍が深く頭を下げながら書面を差し出し、それを厳しい表情で見守る別の侍も描かれた、江戸時代の公的な訴えの場面のイラスト

しかし惣八は堰堤や用水路を築くための費用は計算してみておどろきました。予想はしていたのですが、あまりにお金がかかりすぎて、到底柳瀬地区だけでは出せないことがわかったのです。そこで詳しい資料をそえて佐土原のお殿様に「どうぞ助けてください」とお願いの手紙を出したのです。
お殿様は惣八の村を救おうとする気高い心をほめたたえ、お手元のお金を出してくださったのです。惣八は「ありがとうございます。これで柳瀬村を救えます。ありがとうぎざいます」と勇んで工事に取りかかりました。

大勢の男たちが川の中に立ち並び、協力して太い木の柱を何本も組み上げながら頑丈な構造物を建設している、江戸時代の土木作業の様子を描いたイラスト

こうして工事は始まりました。柳瀬村のお百姓さんも、惣八も、藩の水利係の人も真っ黒になって一生懸命働きました。

大雨が降り増水した川に流され、高く積み上げられた木材の杭を川の手前に集まった村人たちが見つめている江戸時代の土木作業の現場を描いたイラスト

しかし、工事は簡単には進みませんでした。堰堤造りは、川の中に木材で杭を立て、そこに土を入れた袋をつんでいくという工法でした。工事の途中で大雨が降り、川の水かさが増すと、せっかく積んだ土の袋が棒杭ごと流れてしまうのです。このことがたびたび起こりました。

険しい岩場のような場所で、揃いの青い作業着を着た大勢の男たちが、クワやツルハシを振るって地面を掘り起こしたり天秤棒で重い石を運び出したりする、江戸時代の過酷な土木工事を描いたイラスト

一方、用水路造りも大変でした。元々川が流れた後にできた土地のため、少し掘ると大きな石がごろごろと出てきますし、また、低いところを掘ると、石と一緒に水がどんどんわき出してくるのです。なかなか掘り進むことはできません。

切り立った崖が続く川岸を背に、川の流れを遮るように石を積み上げた巨大な堤防が完成し、それを手前で正装した侍の役人と多くの村人たちが一列に並んで静かに見守っている江戸時代の治水事業を描いたイラスト

惣八は寝る時間も惜しんで熱心に工事場を見て回りました。そしていろいろな知恵を出して工事を導きました。その結果、ついに長さ150間(約270メートル)、高さ10尺(約3メートル)のきわめて丈夫な石積みの堰堤と、長さ約一里(約4キロメートル)幅6尺余(1.8メートル位)ほどの水路が完成したのです。

川岸に築かれた強固な堤防の上で、神職が儀式を執り行い、水路に水が流れるのを見守る侍の役人や歓喜に沸く村人たちの姿を描いたイラスト

さあ、いよいよ初めて水を通します。みんな心配そうにじっと見つめています。
堰堤から水路に水が流れました。水は勢いよく流れています。人々が待ち構える柳瀬の村へ。

人々は「万歳、万歳これで米が作れるぞ」と涙を流して喜びました。こうして柳瀬の村へ水は届くようになったのです。時に明治4年3月18日でした。

上半身裸の男たちが力強く餅をつき、それを取り囲む女性や子どもたちが楽しげに見守る、江戸時代の餅つきの風景を描いたイラスト

この後、柳瀬村の畑は順々に田んぼへの変わっていったのです。初め4町歩ほどしかなかった田んぼが、水が届くようになった後は50町歩位にまで増えたのです。それにともなって人々の暮らしはだんだん豊かに変わっていったのです。この時、水が来た地区は柳瀬の 他に黒生野、岡 富、現王島等がありました。

宮崎県内の詳細な位置関係を示した全体図から、一ツ瀬川流域の新富町、西都市、佐土原町にまたがる広範囲なピンク色のエリアを円形でクローズアップした、地理的な範囲や流域の重要性を視覚的に伝えるための説明用マップ

このとき惣八はこの堰堤(人々は栗唐堰きと呼んだ)が後にもっと大きな面積を潤すことになるとは思ってもいなかったのです。この後に新田村伊倉の松本覚兵衛という人がこの堰から水をもらって伊倉地区、下新田地区にも水が行くように用水路を造りました。やがて、用水路は下富田地区にまで広がって広い範囲でお米が作れるようになりました。そして今や宮崎県下で最大の灌漑面積を持つまでになったのです。

明るい畳の部屋で、外出の準備をするためか羽織を整えている男性と、その後ろで着付けを手伝う和装の女性の姿を描いたイラスト

さしもの惣八も、今度の栗唐堰づくりには力を出し切ってがんばりましたので疲れて病気になりました。そこで、それまでについていたいろいろなお役目をやめることを願い出ました。
ついに堰堤づくりの神様みたいな惣八も堰堤づくりから引退していったのです。

遠くに連なる青い山々を背景に、手前に広がる豊かな畑と、その奥に並んで建つ複数の藁葺き屋根の民家や納屋が描かれた江戸時代の農村のイラスト

惣八はこの後、蚕を養って絹糸を作る養蚕という技術を地区の人々に教え、自分も養蚕にはげみました。明治23年、柳瀬から中須に隠居して移り住み養蚕室を建て、製糸機を据え付け宮崎県の養蚕業の先駆けとなりました。

高くそびえる二本の大きな木の間から、石段の先に建つ寺院の山門と白壁を望む、境内の風景を描写したイラスト

金丸惣八は明治31年7月4日、惜しまれながらこの世を去りました。74歳でした。

青々とした木々を背景に、注連縄が巻かれた二つの大きな自然石の石碑がそれぞれ立派な石造りの台座の上に鎮座している、屋外に建立された記念碑を描いたイラスト

人々は金丸惣八を、村を救ってくれた偉大な恩人としていつまでも感謝し、永遠にその業績をたてえるために記念碑を建立しました。また毎年祭典を行い、いままで栗唐堰と呼んでいた堰を「金丸堰」と呼ぶようになりました。

青い山並みを遠くに望む広大な黄金色の田畑を前に、縁側に立つ二人の子どもが景色を眺め、室内では団扇を手にした高齢の男性が夕涼みをしながらくつろいでいるイラスト

「どうだい?こんなことがあって今の立派な美しい田んぼができたのじゃよ。新吉君、富子さんわかったかの。」おじいさんは目を細めながらいいました。
黄金色に波打つ田んぼの上を盆とんぼが飛び交っています。柳瀬地区ももうすぐお盆を迎えます。

金丸惣八の業績及び経歴

  • 文政8(1825)年 児湯郡新田村大字新田柳瀬に金丸景住の長男として生まれる。
  • 弘化4()年 佐土原藩井出方里山方附き役となる。
  • 安政2(1855)年 家老に従い江戸へ旅する。
  • 安政3(1856)年 家老に従い諸国状況視察 同年8月帰国
  • 安政4(1857)年 児湯郡三納村大木谷に新堤築立
  • 安政5(1858)年 佐土原藩領内の島之内に新堤築立
  • 安政6(1859)年 北那珂郡馬の越に新堤築立
  • 安政6(1859)年 児湯郡鹿野田村新堤築立
  • 安政6(1859)年 上那珂村新神谷新堤築立
  • 安政6(1859)年 新田村山田が迫新堤築立
  • 文久元(1861)年 上富田村後迫新堤築立
  • 文久2(1862)年 上富田村民二郎谷新堤築立
  • 文久2(1862)年 北那珂郡下田島二つ建塩浜築立
  • 文久2(1862)年 富田村五反田、王子、塩浜築立
  • 文久3(1863)年 薩英戦争に出陣
  • 文久3(1863)年 新田村銀代ケ迫新堤築立
  • 元治元(1864)年 上富田村鬼付女前新堤築立
  • 慶応元(1865)年 上富田村日置川、新川井出築立 40才
  • 慶応2(1866)年 山田村川原新堤築立 新田開墾
  • 慶応2(1866)年 三財村門田 新井出新堤築立
  • 慶応2(1866)年 上富田村上村新田持堤築立
  • 慶応2(1866)年 北那珂郡下田島徳の淵新田開墾塩止土手築立
  • 慶応2(1866)年 上富田村大淵新田開墾塩止め土手築立
  • 慶応2(1866)年 新田村仮迫より135間の水路を地中を掘り抜き、同村竹淵中村伊倉へ通水
  • 明治2(1869)年 任民事局更正
  • 明治2(1869)年 4等里正申しつけられる。
  • 明治2(1869)年 任民事局灌
  • 明治3(1870)年 新田村栗唐瀬新堤築立川井出用水路幅6尺余長さ1里余
  • 明治4(1871)年 病気につき依願退職
  • 明治8(1875)年 新田村伊倉新田開墾のための用水路を栗唐瀬より取り、途中水路地中を掘り抜き通水
  • 明治8(1875)年 桑の木を植え養蚕技術を地区民に教える
  • 明治23(1890)年 新田村中須に隠居養蚕室を建て製糸機を置き、県内養蚕の先駆者となる。
  • 明治31(1898)年 死亡 享年74歳

郷土の先覚者シリーズ2 「金丸惣八の生涯」 より

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